2018年07月16日

横浜駅SF

これを2017年の感想に書くのはおかしいが.というのも,カクヨムの時に一度全部読んだので.

「改築工事を繰り返す<横浜駅>が、ついに自己増殖を開始。それから数百年――JR北日本・JR福岡2社が独自技術で防衛戦を続けるものの、日本は本州の99%が横浜駅化した。脳に埋め込まれたSuika で人間が管理されるエキナカ社会。その外側で暮らす非Suika 住民のヒロトは、駅への反逆で追放された男から『18きっぷ』と、ある使命を託された。はたして、横浜駅には何があるのか。人類の未来を懸けた、 横浜駅構内5日間400キロの旅がはじまる――。」

まあこの設定で面白くなかったら詐欺でしょ.
実際,物語展開に不満が無いわけではないが,設定の面白さで長編を最後まで走りきれるのはすごい.
この世界をもっと見てみたいと思わせるだけの筆力はあった.
その多くの人間が抱いた思いは,当然後に結実するのだが,それはまた別のお話.
posted by terarorz at 20:06| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

征途 愛蔵版

愛憎版とか呼ばれてたけど.
今更出すならもう少し加筆とか改定とか欲しかった.
ただまあ「晴れた日はイーグルに乗って」は読んだことがなかったので良しとしよう.
征途自体は佐藤大輔のデビュー作ではあるが,晴れた日は〜にはその後佐藤大輔が描こうとした世界がいくつも出てくるので,佐藤大輔ファンにはおすすめ.
高いけど,線香代だと思って払いねえ.
posted by terarorz at 20:03| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

首都圏 住みたくない街

関東とりわけ東京近郊に生まれ育った人間をターゲットに,首都圏のいろいろな街の下世話な格付けをこれでもかと積み上げていくスタイル.
簡単に言うと「だいたいあってる」という感想になる.
ただこれを真に受けると住める街がなくなるが.
東京近郊で生まれ育った人間にのみ超オススメ.
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人類は衰退しました 未確認生物スペシャル

短編集はいまいちですね,ってこれ前にも書いたな.
前の短編集の感想で書いたわ確か.
深刻にならないわたしは語り部というより最強兵器すぎて.
posted by terarorz at 18:58| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自爆する若者たち

何らかの革新によって人口爆発が起こると,既得権益に対して人口が余るので後先考えない行動が増えるという話.
それが宗教戦争と絡めばISISになるし大航海時代と絡めば新大陸を発見する,経済戦争と絡めば高度経済成長期を生む.
そのうち女の社会進出と高学歴化に伴って出生数が落ちれば若手の人口爆発=ユースバルジは消え,いつか高齢化社会へと至る.

これまでの人類の歴史における同様の事例を何度も何度も何度も並べてくれるので,前述のテーゼをすっかり信じ込むに至ってしまった.
高度経済成長期は勤勉な日本人の努力の結果ではなく,人口爆発ボーナスと為替固定ボーナスの相乗効果であること,あるいは団塊の世代の犯罪率の高さについても上手く説明されてしまったし.
posted by terarorz at 18:49| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エルフと戦車と僕の毎日II

佐藤大輔.
前巻は正直期待外れでハーレムラノベ向いてないなこの人って感じであったが,だんだん血生臭くなってくるに従って徐々に佐藤大輔らしく読み応えが出てくる.
圧倒的に絶望的な状況から奮戦とギリギリの幸運で何とかなる,のは主人公が第一次中東戦争のイスラエル側を持っているので確定的に明らかなのだが.
といったここから盛り上がるところで,しかし,どうして死んでしまったかなあ.
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ILC/TOHOKU

リニアコライダーが東北に建設された後の世界,という設定.
野尻抱介,柴田勝家,小川一水と三者三様でなかなか面白い.
お気楽能天気な野尻抱介といつの間にかロジックを捨てて禅問答を始める小川一水とか,個性が出ている.
読む価値はあり.
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2018年07月15日

地球連邦の興亡4

いやだからなんでこんな順番で読んだの君.
佐藤大輔の作品のクライマックスはあっさりしていることが多い.
後日談のようなものが比較的長かったり,種明かしのシーンがあったりするからだ.
本作は違う.
血が沸くような興奮のままプッツリと切れる.
数ある佐藤大輔の作品の中でも名作の一つに数えられるのは,そのクライマックスが原因かもしれない.
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重力アルケミック

森見登美彦の大学生生活もの,とは一線を画する,理系大学生の理系大学生による理系大学生のための小説.
燃素とか重素とかがある世界を当たり前のように描写されるので,こちらも「はぁ」とか言いながら受け入れるしかないのである.
これは著者の作風で,何しろ「横浜駅SF」を書いた人なので.
あれが好きな人は多分これも好き.
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勉強できる子卑屈化社会

なんで君はこんなの読んだんですか…?
これには回答があって,職場の大多数より自分が高学歴であることに関して揶揄されるケースが日常的に多く,なんで俺がこんな思いをしながら我慢しなきゃならんのだと怒りをためていたからですね.
そこでこんなタイトルの本に飛びついて,そこに乗っているあるあるネタを読めば安心できると思ったのでしょうな.

安心,できましたか?
できませんでした….

こういう内容で心が休まる時期というのはもう過ぎてしまったわけです,君は.
自分がどうでもいいと思っていることに関してネチネチとネタにされるのがうっとおしいという感情は,そのどうでもいいと思っていることを見つめ直したところで解決しない.その感情の原因は100%外因性で自分が気にしても状況は変わらない.
端的に言ってその集団とは合わなかったのだから,さっさと転職して正解だったという他にない.
何しろ,転職した今の自分は,この本を読もうとした自分が一体どんな心理状況だったのか,理解はできても納得はできないでいるのだから,この程度の経験なんて一過性なものなわけです.
posted by terarorz at 18:08| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

航空宇宙軍史完全版5

航空宇宙軍史という傑作群の中で終わりなき索敵だけはあまり好きではないので,この5巻もあまり好きではない.
ただしロックウッド中将だけは魅力的なキャラ造形で,いやキャラ造形というよりは彼の陥った運命があまりに不幸でなおかつ魅力的なのだが.
この感想は初めて読んだときも数年前に読み返したときも最近読み返したときも変わっていない.
とか何とか言いながら3回は読み通しているのでこれは立派なファンかもしれない.
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地球連邦の興亡-宇宙軍陸戦隊-

佐藤大輔最後の作品,の後に読んでたりする.
この感想もその順に書いている.
さっきのは一体何だったんだ.

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狼と羊皮紙II

コルとロレンスの違いみたいなものを考えながら読むことになった.
ロレンスのほうが年かさなだけに少し落ち着いているというか,落ち着かなければならないという意識がある.
もちろん行商人として金を稼ぎたいという気持ちがあってそれが物語の原動力なわけだけど.
コルのほうが信仰とかいうあやふやなものに立脚していて,それでもなおロレンスに負けないかそれ以上の熱量があるのだから,これはもう若さと言うしか無いだろう.
ロレンスも度々命を賭けていたが,コルもそういう羽目に陥った.

より歳をとったはずの支倉凍砂がより若い人間の物語を書いているのが少し面白い.
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2011年08月06日

傾物語

八九寺出てKONEEEEEEEEEE!!!!!
忍ちゃんかわいいよペロペロ。
それ以外にどんな感想を抱けというのか。
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2011年01月17日

一発ネタ

佐藤裕也21歳冬。
己の頭脳と知力に限界を感じ悩みに悩み抜いた結果、彼がたどり着いた結論は感謝であった。自分自身を育ててくれたリクナビへの限りなく大きな恩。自分なりに少しでも返そうと思い立ったのが一日十枚、感謝のES!!
気を整え、拝み、祈り、構えて、書く。
一枚を描き上げるのに当初は1〜2時間、十枚分を書き終えるまでに初日は15時間以上を費やした。書き終えれば倒れるように寝る。起きてはまた書くを繰り返す日々。
2年が過ぎた頃、異変に気付く。十枚分書き終えても日が暮れていない。
齢30を超えて完全に羽化する。感謝のES十枚分一時間を切る。かわりに自己分析する時間が増えた。
SPIを受けた時、佐藤裕也のペン先は――時を……置き去りにした。
バイト(気の…せいだよな、一瞬…消えて、動きが後から…)
「試験監督……?」
「え… 試験監督様が………!!」
佐藤裕也「さて…合格かけて闘るかい?」
試験監督「満点は差し上げまする……是非私めを弟子にしていただきたい………!!」
賢者が、誕生した。
佐藤裕也「いいよ、代わりに面接受けてくれたらな」
60年以上昔の事である。
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2010年05月18日

不細工なホラー映画〜或いはそれが現実かもしれない件について〜

哲学的ゾンビという言葉をご存知だろうか。ああ、別に知らなくても良いんだ、そんな高尚な話をしようというんじゃない。もっと低俗でつまらない、人間の話だ。

昔、一般人が怖いという話をした。いや、していない。たぶん何かを読んだ時の感想として書いた。
一般人とは、世の中に存在する自分に近くない人間の最大公約数、あるいは最小公倍数としての群体だ。
特に人間の種類が均質化されている、または均質化が美徳とされる日本において、一般人という単語が表現する領域は結構狭い。
その一般人像は、知性が無く、思想が無い、のっぺら坊のような人間だ。

最大公約数なんだから個性が無く見えるのは当たり前だ、と思うだろうか?俺はそうは思わないし思えない。
普通、その他大勢の書き割りだと思っていた人間も、近しくなってみれば意外と物事を考えて行動し、知性があり、思想がある、そう期待する。
だがそれは幻想である。かなり多くの場合でその理想は満たされない。やはり多くの人間は、考えず、考えられず、考える対象が無い。

民主党に投票したカスども、と言った時点でかなり多くの日本人がカスになるのだが、これはまず考えてない。考えれば前回の選挙で雪崩が起こることくらいわかるはずだ。考えれば、バランスを取るべきだろうと思うはずだ。何故なら、我々は歴史から学んでいるから。ヒトラーが完全に民主的な手続きで国家元首になった例を引き合いにするまでも無く。
学習してないとすれば、それは猿だ。過去から学ばない人間なんて、過去を学ばない人間なんて猿と同じだろう。
だから自民党に投票しろと言いたいわけではない。せめて小選挙区と比例で投票先を変えるくらいの分別があっても良いだろうと、たったそれだけのことを言っている。
その程度も出来無いというのなら、それは考えてないのではなく、考えられないのだろうという結論に至る。
考えることは良いことか、と屁理屈をこねられたら困る。当たり前すぎて。考えないなら家畜と一緒=家畜でないなら考える、だろう。考えても動物から脱却出来るとは限らないけど。
それともまさか一般人って奴らは家畜と同じで良いと思ってるんだろうか。
怖い。
一般人怖い。

こいつ、こいつらを表現するのに、哲学的ゾンビという言葉はどうかなと思った。勿論本来の意味-哲学的ゾンビば人間の真似をする機能だけがついているがクオリアが、意識が無い-を知った上で。奴らは人間のフリをしているが、人間としての機能を持っていない、なるほど、ゾンビだ。
しかしこれは撤回した。奴らはゾンビとしては、余りに不出来だ。奴らは人間の真似すら出来ていない。考えられないのだから。
そういうわけで、他の言葉を考えたが、残念ながら動物という言葉しか出てこなかった。我ながら語彙の貧困さに絶望する。一般人は、動物だ。


一般人を観察していると、気づくことがある。一般人の中に、ちょっと賢い一般人が居る。ちょっと賢い一般人は、どうも考えることが可能らしい。
何て素晴らしいんだ、喜び勇んで会話を試み、次の瞬間に、乃至はしばらくして気づく。こいつ、違うぞ、と。考えることは可能っぽいのだが、考える方向が何か間違っている。浅い。全く深まらない。そして気づく。こいつは、考える対象が無いのだ。

普通、人間は考える。対話でも論理の積み上げでも形式によらず、情報の変換が考えるという作業だから、意識の中には材料と生成物が存在する。材料となるのは意識が受け取る全てのものだから、外部からの入力、および自分自身の出力になる。
さて、そうすると外部入力より自分の出力の方が大きくなる。入力より小さな情報しか出力できない、エントロピー増大則に反した知性なんて認められん。
話はそれるが、右から左に流すだけで少なくとも同じ情報が出力でき、それに何を加えるか、が結局は考えるという作業の価値だ。要約だって、元の情報に「要約可能である」というラベルを貼っていると考えられるしね。
ともかく、自分の外界からの入力より自分内部でのループが増えるにしたがって、無意識に蓄積された情報の影響を受け情報の入力と出力の間にある程度の相関が生まれる。
当然まともな知性ならそれを認識し、自己を確立するわけだが、その法則性、方向付け、ベクトルを何と表現すれば良いだろうか?それは、思想だ。

しかし、自己の出力する情報と向き合わなかった人達というものが居る。一体どこで自分、自己を定義しているのか全く分からない、不気味な一般人が居る。考えることは可能であるはずなのに。
まともじゃない知性としか言いようがない。外界の情報との相互作用のみを行い、自分の出力を顧みない奴ら。人間のフリをする奴ら。人間の真似がちょっと上手い、しかしゾンビでしかない奴ら。
そういう奴らには、思想が無い。アイデンティティの無い一般人というゾンビ。
怖い。この恐怖感こそが、まさにゾンビと呼ばしめる力の源だ。

まとめ。
一般人を分類すると、動物と、ゾンビになる。その中にわずかに人間が居る。ジュラシック・パークでやっと逃げ込んだ小屋にヴェロキラプトルが居た時の絶望感が唐突に浮かんだ。俺たちはそういう世界に生きている。
気を付けろ。いつでも一般人はお前を狙っているぞ。
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2010年02月10日

百合の何が良いのか

百合に限らずホモセクシャル全般についてだけど。

男女の仲には少なからず「文法」がある。
それをひっくり返すから肉食系女子なんて言葉が生まれる。
本当に男女が物理的にも社会的にも平等に均等に出来ているなら恋仲を進展させる50%は女性の側からの筈だけど、そうではない、完全ランダムではない、つまり決まりごとがあるということをこの肉食系女子という言葉は示唆している。
この文法は現実世界(笑)でも恋愛自由度を奪っているのかもしれないが、実は妄想自由度も奪っていく非常に由々しき存在である。

まあ現実世界には興味が無いので置いておくとして、妄想のお話をする場合でも、所詮自分の意識野の上で世界を構築している以上、背景にこの文法が紛れ込んでくる。
妄想の世界は現実のアンチテーゼとして存在するケースが多いから(そうでない妄想もあるが)、表の世界での文法を否定するような文法を使うことが多い。
つまり現実に居たらキモイの一言でしかないツンデレやらヤンデレも妄想の中では寵愛の対象になるのである。

さて、ホモセクシャルの話をしよう。
ホモセクシャルはそれ自体が人間の禁忌に触れる忌まわしくすらある存在だから、ヘテロな人間がホモを妄想する事自体はそれほど不思議なことではない。
だけどそれ以上にホモにはメリットが有る。

一つには肉体的快楽を必ずしも伴わない、純粋(笑)な恋愛関係を妄想することが出来る。
まあそういうものを求めている時点で現実のヘテロ恋愛に対するコンプレックスを露呈しているようなものだけど。
マリみて的ホモを好む嗜好はこちらだろうか。
これについては昔書いた。

もう一つが、文法の否定だ。
特に社会的な文法の否定を容易に行える。
男女という役割から開放されて個々人のキャラクターに従った行動が可能になるということだ。
もちろんホモに拘らなくても肉食系女子(ホロって言ったら噛み殺されそうだけど)を使っても良いんだけど、ホモであるほうがより役割の破壊を明確にし易い。
これはBL的腐女子的である。
まあ詳しくないので深く突っ込まないけど、たぶんそうなんじゃないかと予想。

文法の破壊は抑圧からの解放を意味し、これが実に気持ち良い。
こうなれば攻めも受けも自分の好きなように構築できるし、場合に寄って反転するような妄想も想いのままだ。
もっとセクシャルな話をすればどっちが挿れてどっちが掘られるかという話だけど、これも自由自在。
え?百合だと無理だって?
世の中にはふたなりという概念があってだな。
肉食系女子が童貞を押し倒して云々はビッチに見えるが、タチがネコを押し倒して云々は萌えに見える。
見えないか?
俺は見える。

現実の否定の妄想の中で、性差を否定すればするほど現実の自分が何に囚われているかがわかるような気もするが、余り深く考えないことにしようか。
実際問題として百合の妄想は楽しいのである。
そして娯楽は楽しくあるべきだ。

まあ何だかんだ書いた後にオチを付けたくなるというのが俺の性分なわけでして。
それではオチを予想してください。


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posted by terarorz at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

音楽の好みの話をしよう

私はこの音楽が好きですと主張したとする。
何故ですか?と聞かれる。
音楽の好みが感覚的なものであるのは勿論だがそれを説明出来無いのは癪に障るので何とかして説明しようとする。
これは姿勢としてはとても大事なことだ。

音楽を構成する要素を考える。
二つの音楽があった時に何が違えば違う音楽だと言えるのか。

一つには音色の違いを挙げよう。
使う楽器が違えば違う音楽に聞こえる。
違う人が歌う場合ですら違う音楽に聞こえるかもしれない。
音色が違えば、倍音の重ね方が違えばそれは明確な情報の違いだろう。
フーリエ変換をかけるまでも無い。

一つにはメロディの違いを挙げよう。
メロディが違えば例え同じ人が歌い同じコード進行であっても違う曲に聞こえるだろう。
当たり前すぎる。

一つにはコード進行があるだろうか。
どこで盛り上げるか、どう盛り上げるか、主義主張を出す部分はむしろこちらかもしれない。
似たようなメロディでもアレンジャーによっててんでバラバラ違って聞こえるのは、どの調を採用するか、どのコードで下支えするか、に大きく依存する。

一つにはリズムがあるだろう。
原始の音楽を考えてみれば恐らくそこには高低とテンポ、拍の違いしか無かっただろう。
四拍子の中に入る三連符に惹かれるのは予想されるリズムを崩すからであって、その音が上がっていくのか下がっていくのかには余り依存しない。

この辺りで気づく。
メロディはリズムとコード進行に支えられて乗っているだけだと。
主旋律なんてどうでもいいんだよ、と。

とは言うがね。
俺の個人の話をすると、そうとは言えない。
俺の耳は非常に性能が低く、主旋律を綺麗に追えない。
或いは主旋律に集中すると他がどれも同じような音に聞こえるゴミのような耳だ。
そんな人間にとってメロディがはっきり提示されることは重要というより欠くべからざることだ。
メロディに乗って初めて拍をコードを(暗喩的にではあるが)評価出来るようになる。

さて、他の楽器と明確に違うと人間が認識できる音は何だろうか。
それは勿論人間の声だ。
生まれて以来人間の音をコミュニケーションの道具として認識してきた以上その音色に対して敏感になるのは必然だろう。
そういうわけで、俺のようなクズにはVocalが無いと音楽を評価出来無い。
ま、主旋律が他の楽器から一段浮いて聞こえるような曲なら良いんだとは思うが、Vocalありの曲が一番手っ取り早いってことだ。

というわけで、俺が音楽を評価するときは大体歌が対象になる。
その基準は何だろうか。
前に提示したとおりだ。
音色と、広い意味でのメロディの二つ。
前者は歌い手の音程の範囲が曲と合っているかと言う話だ。
高音がかすれず低音が響けば大体合格するだろう。
後者はコードがどうのこうの、テンポがどうのこうの、ややこしい話を全部押し付けて何となくメロディが耳触り良く聞こえると解釈する。
特に主義主張を感じられるメロディだと尚良い。
これでもかと同じフレーズを繰り返すような。
そうでなくても音の数を増やして音域を広げれば大体好みになるような気もするが。

他に。
言いたくは無いけど、歌詞、というのもある。
んなもん全部LaLaLaでも構わんという気はするが、良く出来ている歌詞を殊更貶める必要も無いだろう。
韻を踏めているか、言葉遊びが楽しいか、など。
要するに耳に入る時に言葉の羅列が不快にならず、むしろ引きつけられるような、まさに聴くに値する言葉なら良い。

結局、この三つで評価しているパターンが多い。
・歌い手(および選んだ楽器)の好み
・メロディ、フレーズの好み
・歌詞
東方アレンジはメロディがある程度決まっていて、かつそれが俺の好みだから多少Vocalがヘタクソでも及第点が出て合格しやすいのかな。
歌詞も同業者だけにわかる工夫があるし。

最後にオチをつけておこう。
ここまでは全部足し算。
評価=(音色+旋律+歌詞)*思い出補正
という悲しいお知らせがある。
ゲーム音楽が何故琴線に触れるかと言ったらこれだ。
匂いと同じで音は人間の記憶に深く関わっている。
記憶を呼び起こして楽しかった時間を再体験するというのはあり得ない話じゃないだろう。
例えそれが音楽それ自体による快感では無かったとしても。

積み上げた経験(体験ではない、これは後述する予定)によって人格が形成されるとは良く言ったもので、その人間の音楽的なバックグラウンドと音楽の好みは強い相関を持つ。
だから万人の好む音楽が作れないんだ。

こういう長文が思考の蛇行を伴って生まれたとき、最後に言い訳を書きたくなるのが俺の良くないところ。
今回は書かない。
という一連の文章が既に言い訳なんだが、「だから万人の好む音楽が作れないんだ」キリッで終わるのは辛すぎる。
posted by terarorz at 03:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

自分を何かのアンチテーゼとして定義するのはやめないか

年賀状の話。

年賀状を出すか出さないかは個人の自由です。
社会的コミュニケーションツールなんだから、相手と自分の気持ちの問題とか言って適当に手を打ちましょう。
相手が受け取りたくないと言うなら出さない方が良いし、相手が出せと言うなら(直接的でも間接的でも)出すべきでしょう。
或いは出せという相手が嫌いなので出さないなんて手もあります。
これに反抗することは社会や社会のルールに反抗することで極めてカッコいいです。

という自分のベクトルの表明は極めてカッコ悪い。
以前俺は自分の価値観を外部に求める事は「悪」だと定義した。
年賀状というコミュニケーションの一つの方法を採用するか否かくらい自分自身の価値観に則って決めた方が良い。
社会で行われているからやらないというのは極論すれば自分の定義を外部に立脚させる行為だから悪だとすら言える。

年賀状を送るという一つのコミュニケーションの方法に対して自分がどうリアクションするのか。
これはどうでも良いようだけれど大きな問題かもしれない。
年賀状なんて旧郵政公社(の前身?)がはるか昔に作った人工の行事だろう。
こんなものに踊らされている奴はもちろんクリスマスに浮かれるクズと同レベルだ。
問題は自分の友人から年賀状が送られてきた場合だろう。
ああ、こいつは友人だと思っていたのに友人とは言えない言いたくないクズだったのか。
それに対してどうリアクションするのか。
まあ友人付き合いを続ける価値が無いなら話は早い。
そいつのアドレスを携帯から消し、マイミクなら外し、Twitterやメッセンジャーなら禁止して、道ですれ違わないように引き篭れば良い。

でもその年賀状が、友人の持つたった一つの欠点だったら?
多分その場合面倒くさいと思いながら返事を書くだろう。
それは友人の期待に応えることが社会に反逆することよりも大切なことだ、とその時の自分が判断するからだ。
それとも、社会に反逆することは何よりも大切で、友人(笑)如きの為にその信念を曲げてたまるか、と思うかもしれない。
俺に何通の年賀状が来ようとも貴様らには何一つ返事など出してやらんと意固地になるかもしれない。
それも良いだろう。
どちらにせよ、それは個人の自由だ。

どっちでも良い。
ただどっちを選ぶにせよ、ここまで思考した上で判断を下すべきだ。
感情でどちらかを選ぶのはまさに動物だ。
もっと人間らしく生きよう。

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posted by terarorz at 02:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする