2013年01月12日

ホロとフェネシスとSM あるいは何故まおゆうはつまらないのかについて

ホロはSかMか.
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2011年08月06日

傾物語

八九寺出てKONEEEEEEEEEE!!!!!
忍ちゃんかわいいよペロペロ。
それ以外にどんな感想を抱けというのか。
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2011年01月17日

一発ネタ

佐藤裕也21歳冬。
己の頭脳と知力に限界を感じ悩みに悩み抜いた結果、彼がたどり着いた結論は感謝であった。自分自身を育ててくれたリクナビへの限りなく大きな恩。自分なりに少しでも返そうと思い立ったのが一日十枚、感謝のES!!
気を整え、拝み、祈り、構えて、書く。
一枚を描き上げるのに当初は1〜2時間、十枚分を書き終えるまでに初日は15時間以上を費やした。書き終えれば倒れるように寝る。起きてはまた書くを繰り返す日々。
2年が過ぎた頃、異変に気付く。十枚分書き終えても日が暮れていない。
齢30を超えて完全に羽化する。感謝のES十枚分一時間を切る。かわりに自己分析する時間が増えた。
SPIを受けた時、佐藤裕也のペン先は――時を……置き去りにした。
バイト(気の…せいだよな、一瞬…消えて、動きが後から…)
「試験監督……?」
「え… 試験監督様が………!!」
佐藤裕也「さて…合格かけて闘るかい?」
試験監督「満点は差し上げまする……是非私めを弟子にしていただきたい………!!」
賢者が、誕生した。
佐藤裕也「いいよ、代わりに面接受けてくれたらな」
60年以上昔の事である。
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2010年05月18日

不細工なホラー映画〜或いはそれが現実かもしれない件について〜

哲学的ゾンビという言葉をご存知だろうか。ああ、別に知らなくても良いんだ、そんな高尚な話をしようというんじゃない。もっと低俗でつまらない、人間の話だ。

昔、一般人が怖いという話をした。いや、していない。たぶん何かを読んだ時の感想として書いた。
一般人とは、世の中に存在する自分に近くない人間の最大公約数、あるいは最小公倍数としての群体だ。
特に人間の種類が均質化されている、または均質化が美徳とされる日本において、一般人という単語が表現する領域は結構狭い。
その一般人像は、知性が無く、思想が無い、のっぺら坊のような人間だ。

最大公約数なんだから個性が無く見えるのは当たり前だ、と思うだろうか?俺はそうは思わないし思えない。
普通、その他大勢の書き割りだと思っていた人間も、近しくなってみれば意外と物事を考えて行動し、知性があり、思想がある、そう期待する。
だがそれは幻想である。かなり多くの場合でその理想は満たされない。やはり多くの人間は、考えず、考えられず、考える対象が無い。

民主党に投票したカスども、と言った時点でかなり多くの日本人がカスになるのだが、これはまず考えてない。考えれば前回の選挙で雪崩が起こることくらいわかるはずだ。考えれば、バランスを取るべきだろうと思うはずだ。何故なら、我々は歴史から学んでいるから。ヒトラーが完全に民主的な手続きで国家元首になった例を引き合いにするまでも無く。
学習してないとすれば、それは猿だ。過去から学ばない人間なんて、過去を学ばない人間なんて猿と同じだろう。
だから自民党に投票しろと言いたいわけではない。せめて小選挙区と比例で投票先を変えるくらいの分別があっても良いだろうと、たったそれだけのことを言っている。
その程度も出来無いというのなら、それは考えてないのではなく、考えられないのだろうという結論に至る。
考えることは良いことか、と屁理屈をこねられたら困る。当たり前すぎて。考えないなら家畜と一緒=家畜でないなら考える、だろう。考えても動物から脱却出来るとは限らないけど。
それともまさか一般人って奴らは家畜と同じで良いと思ってるんだろうか。
怖い。
一般人怖い。

こいつ、こいつらを表現するのに、哲学的ゾンビという言葉はどうかなと思った。勿論本来の意味-哲学的ゾンビば人間の真似をする機能だけがついているがクオリアが、意識が無い-を知った上で。奴らは人間のフリをしているが、人間としての機能を持っていない、なるほど、ゾンビだ。
しかしこれは撤回した。奴らはゾンビとしては、余りに不出来だ。奴らは人間の真似すら出来ていない。考えられないのだから。
そういうわけで、他の言葉を考えたが、残念ながら動物という言葉しか出てこなかった。我ながら語彙の貧困さに絶望する。一般人は、動物だ。


一般人を観察していると、気づくことがある。一般人の中に、ちょっと賢い一般人が居る。ちょっと賢い一般人は、どうも考えることが可能らしい。
何て素晴らしいんだ、喜び勇んで会話を試み、次の瞬間に、乃至はしばらくして気づく。こいつ、違うぞ、と。考えることは可能っぽいのだが、考える方向が何か間違っている。浅い。全く深まらない。そして気づく。こいつは、考える対象が無いのだ。

普通、人間は考える。対話でも論理の積み上げでも形式によらず、情報の変換が考えるという作業だから、意識の中には材料と生成物が存在する。材料となるのは意識が受け取る全てのものだから、外部からの入力、および自分自身の出力になる。
さて、そうすると外部入力より自分の出力の方が大きくなる。入力より小さな情報しか出力できない、エントロピー増大則に反した知性なんて認められん。
話はそれるが、右から左に流すだけで少なくとも同じ情報が出力でき、それに何を加えるか、が結局は考えるという作業の価値だ。要約だって、元の情報に「要約可能である」というラベルを貼っていると考えられるしね。
ともかく、自分の外界からの入力より自分内部でのループが増えるにしたがって、無意識に蓄積された情報の影響を受け情報の入力と出力の間にある程度の相関が生まれる。
当然まともな知性ならそれを認識し、自己を確立するわけだが、その法則性、方向付け、ベクトルを何と表現すれば良いだろうか?それは、思想だ。

しかし、自己の出力する情報と向き合わなかった人達というものが居る。一体どこで自分、自己を定義しているのか全く分からない、不気味な一般人が居る。考えることは可能であるはずなのに。
まともじゃない知性としか言いようがない。外界の情報との相互作用のみを行い、自分の出力を顧みない奴ら。人間のフリをする奴ら。人間の真似がちょっと上手い、しかしゾンビでしかない奴ら。
そういう奴らには、思想が無い。アイデンティティの無い一般人というゾンビ。
怖い。この恐怖感こそが、まさにゾンビと呼ばしめる力の源だ。

まとめ。
一般人を分類すると、動物と、ゾンビになる。その中にわずかに人間が居る。ジュラシック・パークでやっと逃げ込んだ小屋にヴェロキラプトルが居た時の絶望感が唐突に浮かんだ。俺たちはそういう世界に生きている。
気を付けろ。いつでも一般人はお前を狙っているぞ。
posted by terarorz at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月10日

百合の何が良いのか

百合に限らずホモセクシャル全般についてだけど。

男女の仲には少なからず「文法」がある。
それをひっくり返すから肉食系女子なんて言葉が生まれる。
本当に男女が物理的にも社会的にも平等に均等に出来ているなら恋仲を進展させる50%は女性の側からの筈だけど、そうではない、完全ランダムではない、つまり決まりごとがあるということをこの肉食系女子という言葉は示唆している。
この文法は現実世界(笑)でも恋愛自由度を奪っているのかもしれないが、実は妄想自由度も奪っていく非常に由々しき存在である。

まあ現実世界には興味が無いので置いておくとして、妄想のお話をする場合でも、所詮自分の意識野の上で世界を構築している以上、背景にこの文法が紛れ込んでくる。
妄想の世界は現実のアンチテーゼとして存在するケースが多いから(そうでない妄想もあるが)、表の世界での文法を否定するような文法を使うことが多い。
つまり現実に居たらキモイの一言でしかないツンデレやらヤンデレも妄想の中では寵愛の対象になるのである。

さて、ホモセクシャルの話をしよう。
ホモセクシャルはそれ自体が人間の禁忌に触れる忌まわしくすらある存在だから、ヘテロな人間がホモを妄想する事自体はそれほど不思議なことではない。
だけどそれ以上にホモにはメリットが有る。

一つには肉体的快楽を必ずしも伴わない、純粋(笑)な恋愛関係を妄想することが出来る。
まあそういうものを求めている時点で現実のヘテロ恋愛に対するコンプレックスを露呈しているようなものだけど。
マリみて的ホモを好む嗜好はこちらだろうか。
これについては昔書いた。

もう一つが、文法の否定だ。
特に社会的な文法の否定を容易に行える。
男女という役割から開放されて個々人のキャラクターに従った行動が可能になるということだ。
もちろんホモに拘らなくても肉食系女子(ホロって言ったら噛み殺されそうだけど)を使っても良いんだけど、ホモであるほうがより役割の破壊を明確にし易い。
これはBL的腐女子的である。
まあ詳しくないので深く突っ込まないけど、たぶんそうなんじゃないかと予想。

文法の破壊は抑圧からの解放を意味し、これが実に気持ち良い。
こうなれば攻めも受けも自分の好きなように構築できるし、場合に寄って反転するような妄想も想いのままだ。
もっとセクシャルな話をすればどっちが挿れてどっちが掘られるかという話だけど、これも自由自在。
え?百合だと無理だって?
世の中にはふたなりという概念があってだな。
肉食系女子が童貞を押し倒して云々はビッチに見えるが、タチがネコを押し倒して云々は萌えに見える。
見えないか?
俺は見える。

現実の否定の妄想の中で、性差を否定すればするほど現実の自分が何に囚われているかがわかるような気もするが、余り深く考えないことにしようか。
実際問題として百合の妄想は楽しいのである。
そして娯楽は楽しくあるべきだ。

まあ何だかんだ書いた後にオチを付けたくなるというのが俺の性分なわけでして。
それではオチを予想してください。


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posted by terarorz at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

音楽の好みの話をしよう

私はこの音楽が好きですと主張したとする。
何故ですか?と聞かれる。
音楽の好みが感覚的なものであるのは勿論だがそれを説明出来無いのは癪に障るので何とかして説明しようとする。
これは姿勢としてはとても大事なことだ。

音楽を構成する要素を考える。
二つの音楽があった時に何が違えば違う音楽だと言えるのか。

一つには音色の違いを挙げよう。
使う楽器が違えば違う音楽に聞こえる。
違う人が歌う場合ですら違う音楽に聞こえるかもしれない。
音色が違えば、倍音の重ね方が違えばそれは明確な情報の違いだろう。
フーリエ変換をかけるまでも無い。

一つにはメロディの違いを挙げよう。
メロディが違えば例え同じ人が歌い同じコード進行であっても違う曲に聞こえるだろう。
当たり前すぎる。

一つにはコード進行があるだろうか。
どこで盛り上げるか、どう盛り上げるか、主義主張を出す部分はむしろこちらかもしれない。
似たようなメロディでもアレンジャーによっててんでバラバラ違って聞こえるのは、どの調を採用するか、どのコードで下支えするか、に大きく依存する。

一つにはリズムがあるだろう。
原始の音楽を考えてみれば恐らくそこには高低とテンポ、拍の違いしか無かっただろう。
四拍子の中に入る三連符に惹かれるのは予想されるリズムを崩すからであって、その音が上がっていくのか下がっていくのかには余り依存しない。

この辺りで気づく。
メロディはリズムとコード進行に支えられて乗っているだけだと。
主旋律なんてどうでもいいんだよ、と。

とは言うがね。
俺の個人の話をすると、そうとは言えない。
俺の耳は非常に性能が低く、主旋律を綺麗に追えない。
或いは主旋律に集中すると他がどれも同じような音に聞こえるゴミのような耳だ。
そんな人間にとってメロディがはっきり提示されることは重要というより欠くべからざることだ。
メロディに乗って初めて拍をコードを(暗喩的にではあるが)評価出来るようになる。

さて、他の楽器と明確に違うと人間が認識できる音は何だろうか。
それは勿論人間の声だ。
生まれて以来人間の音をコミュニケーションの道具として認識してきた以上その音色に対して敏感になるのは必然だろう。
そういうわけで、俺のようなクズにはVocalが無いと音楽を評価出来無い。
ま、主旋律が他の楽器から一段浮いて聞こえるような曲なら良いんだとは思うが、Vocalありの曲が一番手っ取り早いってことだ。

というわけで、俺が音楽を評価するときは大体歌が対象になる。
その基準は何だろうか。
前に提示したとおりだ。
音色と、広い意味でのメロディの二つ。
前者は歌い手の音程の範囲が曲と合っているかと言う話だ。
高音がかすれず低音が響けば大体合格するだろう。
後者はコードがどうのこうの、テンポがどうのこうの、ややこしい話を全部押し付けて何となくメロディが耳触り良く聞こえると解釈する。
特に主義主張を感じられるメロディだと尚良い。
これでもかと同じフレーズを繰り返すような。
そうでなくても音の数を増やして音域を広げれば大体好みになるような気もするが。

他に。
言いたくは無いけど、歌詞、というのもある。
んなもん全部LaLaLaでも構わんという気はするが、良く出来ている歌詞を殊更貶める必要も無いだろう。
韻を踏めているか、言葉遊びが楽しいか、など。
要するに耳に入る時に言葉の羅列が不快にならず、むしろ引きつけられるような、まさに聴くに値する言葉なら良い。

結局、この三つで評価しているパターンが多い。
・歌い手(および選んだ楽器)の好み
・メロディ、フレーズの好み
・歌詞
東方アレンジはメロディがある程度決まっていて、かつそれが俺の好みだから多少Vocalがヘタクソでも及第点が出て合格しやすいのかな。
歌詞も同業者だけにわかる工夫があるし。

最後にオチをつけておこう。
ここまでは全部足し算。
評価=(音色+旋律+歌詞)*思い出補正
という悲しいお知らせがある。
ゲーム音楽が何故琴線に触れるかと言ったらこれだ。
匂いと同じで音は人間の記憶に深く関わっている。
記憶を呼び起こして楽しかった時間を再体験するというのはあり得ない話じゃないだろう。
例えそれが音楽それ自体による快感では無かったとしても。

積み上げた経験(体験ではない、これは後述する予定)によって人格が形成されるとは良く言ったもので、その人間の音楽的なバックグラウンドと音楽の好みは強い相関を持つ。
だから万人の好む音楽が作れないんだ。

こういう長文が思考の蛇行を伴って生まれたとき、最後に言い訳を書きたくなるのが俺の良くないところ。
今回は書かない。
という一連の文章が既に言い訳なんだが、「だから万人の好む音楽が作れないんだ」キリッで終わるのは辛すぎる。
posted by terarorz at 03:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

自分を何かのアンチテーゼとして定義するのはやめないか

年賀状の話。

年賀状を出すか出さないかは個人の自由です。
社会的コミュニケーションツールなんだから、相手と自分の気持ちの問題とか言って適当に手を打ちましょう。
相手が受け取りたくないと言うなら出さない方が良いし、相手が出せと言うなら(直接的でも間接的でも)出すべきでしょう。
或いは出せという相手が嫌いなので出さないなんて手もあります。
これに反抗することは社会や社会のルールに反抗することで極めてカッコいいです。

という自分のベクトルの表明は極めてカッコ悪い。
以前俺は自分の価値観を外部に求める事は「悪」だと定義した。
年賀状というコミュニケーションの一つの方法を採用するか否かくらい自分自身の価値観に則って決めた方が良い。
社会で行われているからやらないというのは極論すれば自分の定義を外部に立脚させる行為だから悪だとすら言える。

年賀状を送るという一つのコミュニケーションの方法に対して自分がどうリアクションするのか。
これはどうでも良いようだけれど大きな問題かもしれない。
年賀状なんて旧郵政公社(の前身?)がはるか昔に作った人工の行事だろう。
こんなものに踊らされている奴はもちろんクリスマスに浮かれるクズと同レベルだ。
問題は自分の友人から年賀状が送られてきた場合だろう。
ああ、こいつは友人だと思っていたのに友人とは言えない言いたくないクズだったのか。
それに対してどうリアクションするのか。
まあ友人付き合いを続ける価値が無いなら話は早い。
そいつのアドレスを携帯から消し、マイミクなら外し、Twitterやメッセンジャーなら禁止して、道ですれ違わないように引き篭れば良い。

でもその年賀状が、友人の持つたった一つの欠点だったら?
多分その場合面倒くさいと思いながら返事を書くだろう。
それは友人の期待に応えることが社会に反逆することよりも大切なことだ、とその時の自分が判断するからだ。
それとも、社会に反逆することは何よりも大切で、友人(笑)如きの為にその信念を曲げてたまるか、と思うかもしれない。
俺に何通の年賀状が来ようとも貴様らには何一つ返事など出してやらんと意固地になるかもしれない。
それも良いだろう。
どちらにせよ、それは個人の自由だ。

どっちでも良い。
ただどっちを選ぶにせよ、ここまで思考した上で判断を下すべきだ。
感情でどちらかを選ぶのはまさに動物だ。
もっと人間らしく生きよう。

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posted by terarorz at 02:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

戦い

人間が生きる動機とは何か。
知らん。
だが俺が生きる動機は戦いだろう。
出来ることなら人間にも拡張したい。
最初は怒りかと思った。
というか怒りであるという結論ありきでスタートしたつもりだった。
何故ならその時俺は怒っていたから。

怒りは人を前に進める。
怒った状態は励起状態で不安定だから、振動緩和するか何かしてとにかくエネルギーを放出する必要がある。
普通は、つまり俺の場合一般は、そしてそこから類推される人間一般は、進歩しようとする。
その場で立ち止まってわめいても何にもならないからだ。

そもそも何で怒るのかと言えば自分の考えと外界の事象がずれるからだ。
全てが思い通りに動くなら怒るまい。
敗北を認めて自分の考えを曲げるのが嫌なら、外界の事象を捻じ曲げるしかない。
外界の事象とはこの場合自意識の外の全てだから、そこには自分の進歩による事象(というより事象の認識か)の変化が含まれる。
こうして人は怒りを克服するわけだ。

逆に勝利した場合はどうなるのか。
大概の場合、人を笑う。
敗北の何が腹立たしいかというと、笑われるのが腹立たしい。
自分が敗北した時に笑われるのを覚悟で人を笑うのはしかしこの上なく楽しい。
このバランスで人間は(少なくとも俺は)生きている。

負ける→笑われる→怒る→頑張る→勝つ→笑う→…
この連鎖が人生だ。
要するに、戦いこそが人生だ。
時に自殺ですら敗北ではない。
時に巨万の富ですら勝利ではない。
ルールは俺が決める。
非常に動物的かもしれない。
だが、やめられない。

最近、社会を相手に戦うのは至極ばかばかしい気がしてきた。
文系の……いや、違う。
ノンアカデミックな人たちが(普段ついついこれを文系としてしまう)社会の中でパイを奪い合っている。
それを相手に戦っても仕方が無い。
アカデミックな人たちと一緒になってパイを大きくする作業に戻るべきだ。
何故なら社会とは人間が征服した自然(あるいは摂理、真理)の一部だからだ。
いや、本当はパイすら大きく無くていい。
新しい情報を生み出していければ、だ。
既存の情報を少ない情報量に置き換えられれば、だ。
社会(笑)が己同士の掛け算で下らない情報を増やす以上の速度で人類の持つ情報を拡張し縮約し、真理に到達するためには何だってやるべきだ。

釣った魚には餌をやらんでも良いだろう。
そんな狭いところで戦っている奴らをどうするべきだろうか。
全力で嘲笑してやるべきだと思う。
それが戦いを生むならそれこそが願っても無いことだ。
posted by terarorz at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

自由度と二次創作

最近は
こんな動画ばっかり見ている。
楽しい。

途中、どこでかは忘れたがバーニィをザクに乗せるかどうかで議論があった。
「バーニィはザクマニアじゃねえから!原作観ろ!!!!」と「スパロボでバーニィがザクマニアなのはお約束だろクソが」とが戦い「お前らよそでやれ」という結論が出た。
まあニコニコとかいうクソコミュニティではこういう迷惑な喧嘩は日常茶飯事だが、この構造、既視感がないか?
そう、東方界隈で交わされる二次設定の是非についての会話と同じだ。
もちろんそれは当たり前で、バーニィの話も、というかスパロボ自体がそもそも二次創作だからだ。

二次設定の是非に関してはこの際置いておくが、二次設定が存在するというのはやはり作品として幸せなことだと思う。
それだけ多くの人が作品の明かされていない細部について妄想したということに他ならないからだ。
それだけ多くの人に好かれた作品だということだ。
そして何より、二次設定の是非についての議論が行われるなんてその極致だ。
議論の余地が生まれるほど多岐に渡る妄想が為された、それは素晴らしいことじゃないか。
こうして見ると、作品が面白いかどうかはともかく、作品の受け手、周辺が盛り上がるかどうかと、妄想自由度の間には強い相関がある。

ソリッドにくみ上げられた作品は妄想の余地が小さく二次創作を代表とするいわゆるファン層を掘り下げない。
受け入れの広さは作品の面白さで広げられるし、面白い面白くない以前に破綻しないためにそれなりに設定と言うものは必要だが、かといってソリッドにくみ上げても面白くなるとは限らない上にファン層が深くならない。
つまり長続きしないのだ。

勿論受け手には個人差がある。
貧困な想像力(妄想力)の持ち主ならソリッドな物語からちょっと妄想して満足だろうし、ファジーな物語ではむしろ妄想が広がらない。
逆に想像力が豊富なら自由度が無い作品では縮こまってしまうし、広い自由度の作品からいくらでも妄想を膨らませることが出来る。
だからどの自由度の作品がどれだけファン層を得るかは解らない。
しかし、同じことの焼き直しだが、やはり後者を対象にした自由度の大きい作品の方が二次創作は長続きするのだ。

緻密な設定として評価を受ける作品もある。
だがそのような作品には設定をアピールするような文章が出てくることは無い。
設定を緻密に表現することほど愚かしいことは無いからだ。
論理的矛盾無く組みあがった異世界はその世界を基底として物語が構築されていくだけで魅力が映し出される。
長々と世界観の説明を必要とするような世界は魅力的ではない。
説明しなければわからない魅力など魅力ではない。
つまり「僕の考えた最強の世界」は間接的表現をされるべきものであって直接明かされるべきものではない。
設定が硬いかと物語が硬いかは大きく違う。

ちなみに、硬い設定よりは大きい設定の方が更に自由度が大きい。
硬い設定でも物語自由度はそれなりにある。
しかし大きい設定は設定自由度まで含む。
根幹さえ硬ければ枝葉はむしろ柔軟なほうが良く、その分大きく広げたほうが自由度が大きい。
根幹がぐにゃぐにゃした設定はまあどうかと思わないでもないが。
小川一水という物語を作る才能に欠けた異世界構築者が居る。
一つの物語としての価値は余り無い。
でも面白い。
それは勿論妄想自由度が大きい、つまり大きな世界観を持っているからだ。

最近の二次創作屋さんは皆猫も杓子も東方だ。
猫も杓子もFate、ひぐらしだったころがあったように。
何故東方がそれほど流行ったか?
その一端にはこの自由度の大きさを認めるべきだろう。
ストーリーなんて殆どあってないような物なのに、キャラと世界だけが提示される。
世界のうち新しい場所が毎年供給されるのがそれに拍車を駆けている。
風→地→星と段々キャラ設定にシフトしつつあるが、それでも幻想郷と博麗大結界、或いは各種異変の解決というソリッドな設定の上にぐにゃぐにゃと色々積み上げて作られた柔軟な世界観はやはり妄想主義者にとって魅力的だ。
これがもし一本道で多様な解釈もクソもない世界だったらこんなに東方界隈は広がっていないだろう。
これで東方の魅力の6割は語りつくされたと思う。
残り4割のうちどれだけが音楽でどれだけがガジェットとしての民俗伝承かは人によりけりだろうけど。

ここまで書いて少し読み返したが、どうにも納得のいくものが書けていない。
言葉の定義があやふやだからかな。
面白さを求めているのか妄想自由度を求めているのかもブレてるし。
ちょっといい加減だったかなあ。
勿論これは言い訳。
文章能力の欠如は言い訳にはならないけどね。
いつか書き直したい。
posted by terarorz at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

現実のアンチテーゼとしての格差社会論

格差社会という言葉が気に入らない。
とりあえず世界の潮流をざっくり分割すると
・競争社会
・平等社会
の二つが挙げられる。
昔は平等社会である社会主義と競争社会である資本主義が戦った結果、世界が資本主義の流れに統一された。
今では世界同時不況なんかもあって競争社会である資本主義を見直そうとして平等社会の一部を取り入れようなんて流れがある。
それは別に良い。
問題は平等社会側の人間が競争社会に対して「格差社会」というネガティブなレッテルを貼り付けることによって
・議論したつもりになる
・論破したつもりになる
ことだ。
というわけで格差社会で何が悪い、というのが今回の主張だ。
現実と解離した格差社会論を論破とは言わないまでもそれに対して疑問を差し挟めれば十分と言うことにする。
経済畑の人間じゃないからね。
おっと、余計な予防線を張ってしまった。

まず議論の大前提にあるのが日本は資本主義経済の国家だということだ。
そこに多少の修正を加えることがあっても、社会主義に全て変更しようなどという事態にはならない。
資本主義経済とは競争社会のことだから、日本は根本的に競争社会だ。
強者が報われ、弱者が地を這うのは当然の結果である。
弱者が地を這わず、せめて日々の生活に困らないようにするのはまた別の問題であるとして。

日本はそれが正常に機能しているか?
是でもあり否でもある。
日本が優れているところは相対貧困率が大きいことだ。
OECD内の調査ではアメリカに次いで第二グループの相対貧困率だったと記憶している。
貧困率などというネガティブなワードなので、これが高いことが悪であるとされ叩かれる傾向にあるが、そんなわけない。
金持ちほど金持ちになるのは競争経済の基本だ。
現在の利益が現在の資本と能力に応じて決定されるという構造を微分方程式として解けば、資産が能力に対して指数関数的な挙動を示すのは当たり前だ。
だから、高い能力を持つほど指数関数的に資産が増える。
それを貧困率などという線形な指標で評価したら、高所得者が多い国ほど貧困率が高くなるのは当然だ。
せめて所得の対数を取って貧困率を計算しろと言いたい。
高い貧困率というのは、持てるものが、強者がそれに応じた所得を得ているという証拠で、むしろ競争社会の成功例として誇るべきものだろう。

それに対して、例えば教育機会の均等は少なくとも成立していない。
金が無ければ国立大学の年間56万の学費は払えない。
日本が学歴社会であることを考えればこれはかなりの痛手だろう。
それでも成功する人物というのが居て、その人を救い上げられているのは社会で競争原理が機能している証拠だとは思うが。
そういう意味で絶対貧困は日本にも少なからずあり、それを修正すべきだというのは当然だろう。
むしろそれこそが、富の再分配こそが政治の仕事なんだが。
しかし、日本の路上生活者の率とOECD平均を比べたらどうなるだろうか。
日本の失業率とOECD平均のそれは?
絶対貧困率は恐らく日本はかなり低い部類だろう。
現状の日本が競争原理の失敗に分類されるとはとても思えない。

平等社会論の問題点にもう少し触れておきたい。
平等というと反対しづらいワードだが、実質は二種類あり、かつ片方はクソだ。
機会とあるいはその結果に対する平等、ありとあらゆる事柄が平等の二つ。
資本主義経済において後者はあり得ない。
競争がなければ資本主義は、そして経済は停滞してしまう。
それに対して前者の平等は「平等な競争社会」の実現には必要不可欠だろう。
どちらも平等と言う言葉で括られるのが始末が悪い。
平等を否定しようとすると前者の否定と(意図的に)誤解される。
しかし後者のような平等は真っ平だ。

日本の政治の面白いところは、保守を掲げる自民党が小さな政府を目指す競争原理であり、交代を掲げた民主党が大きな政府を目指す平等主義なところだ。
まあおかしいところと言ってもいいが。
要するに政府と一体化して時代の潮流に乗ろうとし乗り遅れている自民党と、反対のための反対を続けた結果パフォーマンスとしての政治しかできない民主党という構造なわけだ。
実は変革を起こそうというのが自民党で、旧態依然とした総中流を目指すのが民主党。
日本人はこの辺りを区別して考えているのだろうか。
もちろんしてないんだろうが。

タイトルと内容がだいぶ変わってしまったがまあ気にしないことにしよう。
対立相手の主張を仮想的に構築するのは苦手なので、こういう形になった。
ちなみに以上はマクロな主張で、ミクロな自分としては平等社会の方が楽だくらいに思っている。
その結果社会主義が崩壊したと知識として知っているから、理性は競争社会を求めているけどね。
むしろそれを拡張してマクロにも競争社会を求めている節はある。
そのほうが自分が生きやすいから。
まあそれはそれ。
たまには何か書かないと頭が腐るのでこんな感じで。
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2009年09月13日

スキマツアーと自己分析

自分の好みを抽出して並べてみたら何かわかるかもと思った。

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2009年08月24日

東方野球EXに八百長はあったか?

需要なんて欠片も無い話を書くが、元々このblogの読者は片手で余るくらいしか居ないので好き勝手に書く。
とか言いながら今ふとアクセス解析を見たら20人くらい見てることがわかってちょっとびびった。
意外と世の中暇な人が居るんだなあ。
そのうち何人が身内なのかは知らんが。
好き勝手に書くが一応無責任に書くつもりはない。
あと、八百長という言葉は正確ではない(別に賭けの対象にはなっていない……たぶん)が直すのが面倒なのでこのまま通す。

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2009年08月08日

お前の愛は歪んでいる

それがどうした。

愛とは何か。
共感である。
愛というのは人間の機能としての感情のうち、社会性を維持するために結構重宝されているものである。
恋愛至上主義から離れて恋愛感情に限定せずに愛という現象を考えてみると、愛と言うのは所属する集団およびその構成員に対する共感能力であることがわかる。
家族愛、チーム愛、愛国心、恋愛もそう。
構成員の気持ちに共感し共有することが愛であると言える。
まあ、これについては昔から割りと書いてる気がする。
書いてない気もしたから今ここでもう一回書いたけど。

ところで、全然話は変わるが、コミュニケーションする時に言葉が人間の意識をどう通過しているかを考えてみたい。
人間の意識のうち、言葉を受け取っている部分と思考している部分は実は違うということが言えると思う。
言葉を操っている部分が何を考えているかは言葉で考えることが出来るが、思考、そして行動を司っている部分は実は無意識であって言葉を用いても外部から動作を推測することしか出来ない。
言葉によって自意識が無意識を観測すると表現してもいい。
言葉を受け取るのは自意識だから、情報は
外部→自意識→無意識→自意識→外部
という経路で移動する。
ここで外部からのxという情報の入力に対してf(x)という情報が帰っていくのだが、情報伝達の際のノイズの混入によって微妙に変数xが入力xと異なる場合がある。
そのノイズの混入箇所は上の図で見ると3つある。

・外部→自意識の過程
いわゆるインプット能力で、ここで引っかかれば当然後は全部駄目になる。
他人の語彙を借りれば認識の語彙力と言っても良いし、俺の語彙だと相手を「わかる力」となる。
語彙が不足すると自意識できちんと世界を認識できなくなるからコミュニケーションに支障をきたすようになる。
外部から知性の存在を確認することすらままならなくなる。

・自意識→無意識→自意識
知性は無意識で情報を加工する、と言える。
この過程でノイズが入るというのは相手が人間とは違う形の意識を持った生命体であるという可能性に繋がる。
まあある程度同じバックグラウンドを共有している人間ならここは似た形になる。
その上での個々人の違いを外部から観測するのが楽しいコミュニケーションと言えるだろう。
自意識→無意識の過程、あるいは無意識→自意識の過程で混乱をきたす場合もあるだろうが、それは自己分析というか自意識で無意識をきちんと観測したことの無い、つまり客観視のできない人間の話で、それは割りとどうでも良い。
そういう未熟な人間を俺は相手にしたくないししないからだ。

・自意識→外部の過程
いわゆるアウトプット能力。
言語を使って自分を表現するという能力のことである。
表現の語彙と言ってもいいが、俺は相手に「わかられる力」だと思っている。
この語彙が不足するのは見苦しい。
「マジ」「ヤベエ」しか言わないDQNなんかその典型だろう。
あるいは語彙が共有できていない場合もある。
自分で定義した言葉ばかりで喋っていると相手にわかられないということだ。

コミュニケーションはこのバランスが大事だ。
100%情報をやり取りできる関係が理想とはいえ、人間同士なら必ずしもそうは行かない。
あとはAとBがコミュニケーションする場合はAのわかる力とBのわかられる力、Aのわかられる力とBのわかる力、それぞれの和がアンバランスにならないことが大事だ。
Aからの情報がBに伝わる、或いはその逆の情報量/時間が大きく異ならないことが大事だと言い換えてもいい。
ところで、優れている知性とはこの単位時間当たりに入力、出力できる情報量が多いことではないだろうか。
たった一文だが閑話休題。
しかし実はこの話の多くは余談であった。
ここから強引に本流に戻す。

愛とは共感能力である。
なればこそ、愛するとは「わかる」であり、愛されるとは「わかられる」である。
わかる力とわかられる力にアンバランスのある人間は、愛した量と愛された量に不釣合いが生じる。
経験を積分して価値観が変容する(形成される)ならば、わかった量とわかられた量に不釣合いがある人間の愛は歪んでしまうということだ。
暴論になるが、愛が歪んだ人間はその不釣合いが故かもしれない。
そう思う。

まあ色々書いたが。
・神林長平はやっぱり偉大だった
・さとりかわいいよさとり
の二点に集約されるような気がする。
俺が頭良いキャラを好きになる理由も、さとりを好きになる理由も、上で説明した通りだ。
俺は単純にわかって欲しいと思っていて、要するに愛されたいと思っているということだ。
posted by terarorz at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

俺にある無数の欠陥

のうち今日強く感じたもの

・人を過大評価する
・物事に寛容である
・文脈を維持することに拘る
・「辞め時」を見誤る
・頭が悪い
・頭を使わない
・後先を考えない

重複するものも多い気がするがとりあえずこれ。
一つ思ったのは俺は意外と性善説の人であるということ。
根は良い奴(笑)ってか。
これ、やめたほうが良い。
何の得にもならない。
特に俺自身にとって。

とにかく、何でこんな人間が生きてんの?と思った。
良いからさっさと死ねよ。
俺も含めて。
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2009年07月17日

情報の価値

「思い出す必要も無いでしょう^^」

情報の価値はまあ場合の数で表現できるような気がするが、俺には良く分からない。
そこで俺なりに定義して放り投げると情報理論を勉強した誰かが回収して俺の誤りを正してくれるんじゃないだろうか。
と身内読みをしてみる。

Aが発信した「情報」の中にある情報量が入っている。
という文脈で書いたときの「情報」を、名前がややこしいので「発言」と名づける。
そして、発言とそれに含まれる情報を考え、より情報を多く含む発言ほど価値があると定義する。

他人と同じことを言うのが何故価値が無いか、は以上で説明がつく。
以前に(あるコミュニティに)発信された情報と同じ情報を発する発言は、>>142という安価としての価値しか無い。
それに対してオリジナルの発言は少なくとも単なる安価を遥かに越える情報量を持っている。
笑えるかどうかは別として興味深い、面白い、価値のある発言になるはずだ。
定義を後付けしたから、説明がつくのは当たり前なんだが。

後は情報の受け取り方、与え方の問題になる。
そこに100の情報があっても、インターフェースの問題で相手に10しか伝わらなかったらその100の情報は無駄である。
インターフェースの不備はやはり価値を損ねる。
俺の最近のお気に入りの比喩「釣鐘に知性があっても、叩くだけではそれを判定できない」も同様のことを言いたい。
あるかどうかを判定できないだけで、無いとは言ってないところが味噌である。
悪魔の証明を求められるのを避けているのである。

それともう一つ、↑と区別できない重要な問題がある。
100の情報を入力したときに10しか情報を作り出せない知性体の存在である。
そいつが完璧なインターフェースを備えていても100の情報を与えて10しか帰ってこないのであればやはり割に合わない。
つまり、価値が無いということになる。

悲しいことに上記二つは本当に区別できない。
コミュニケートとは本質的に情報のやり取りであるから100の情報を与えて100を生み出して10返したのか、10生み出して10返したのかは区別できない。
ただ、区別できなくてもその知性体はクズである。
逆に、1000もらって100しか返せなければ自分の存在価値はゴミクズであるということになる。

理想的には100の情報を貰って>100の情報を返せる知性体だがまずそれは難しい。
そうなるとせめて10よりは多くの情報を返そうと努力することが必要になり、情報を加工するということが必要になる。
自分の存在価値、発言の価値というものを過信するなら、あるいは頭が悪すぎて自分の発言を省みないならそのような努力は必要ないだろうが、流石に普通はそうは行かない。
そういうわけで情報を垂れ流すことは罪なのである。

ところで、文学と自然科学に優劣をつけたいとは思わないが、今一つそれを思いついてしまった。
宇宙の存在する限り価値のある自然科学の情報と、人間という土台の上でしか役に立たない文学の情報。
どちらが幅広いだろうか?
俺は文学の普遍的価値を認められるほどには文学を信じては居ないが、知性あるものなら文学を楽しめると信じている。
まあ文学を楽しめないならクズだと言いたいだけだが。
これは俺への宿題である。
ちなみに俺の宿題のビアース的な定義は「踏み倒されるもの」である。
posted by terarorz at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

面白いの定義

面白い=標準からのずれと定義しては駄目だろうか。
乱暴かな。
暴論かな。
でもある程度納得できる考え方なような気もする。

世間一般(笑)で言われるはんにゃ(笑)も普通じゃないリアクションを取るから(かどうかは知らんが)面白いといわれる(笑)わけだし、mogiは誰にも想像のつかないような比喩を使うから面白いわけだし、芋はありえないくらいキモいから面白いわけだよ。
標準の定義が曖昧だから面白いの定義も曖昧になるけど、たぶん頻度が多い=標準と定義すれば良いんだと思う。
直前までの文脈から想像される次に起こる展開のヒストグラムを作って、その最頻値からずれればずれるほど面白いわけだ。

ただし面白いと笑いは微妙に違う。
鉄板ネタは笑えるけど面白くはなくて、それは頻度が増えてしまっているからということになる。
だが鉄板ネタは初出時の面白さが記憶されるのでどうしても笑いを誘起してしまう性質があって、だから鉄板ネタは笑える。
つまり笑いを保障されているといって良い。
まあこういう既出ネタばかり使うと応用力が無くなって頭が悪くなる→人として面白くなくなるわけだけど。

で、ずれればずれるほど、と書いたけど、余り意味不明なことを言えば良いというわけでもない。
例えば麻雀をしていていきなり「てってってー」のリズムで「だっぼっぼー」とか言い出すのは意味不明で面白いけど、そこでいきなり全裸になっても全然面白くない。
これは前者が「ダブル役満のことをだぼーと発音する」という事例を想起させるのに対して後者はそれまでの文脈と関係が無いからである。
逆に言えば、がんさんがいきなり脱ぎ出せばたぶん面白いということだ。
要するに、文脈に沿いつつその範囲で標準から外れなければ面白くないということになる。
実はこれって結構難しいことで、考えながらこれができるためにはある程度頭の回転が早くないといけない。
これは「面白い奴は頭が良いことが多い」のある程度の根拠(というか理由か)にもなる。
「笑える奴」なら別に頭が良くなくても良いけど。
あ、今唐突にわかったけどこれが昔mogiが言っていた高学歴的センスって奴だ、たぶん。

前述の議論は「普通」には価値が無いとする価値観から来ている。
やはり俺は面白くなければ価値が無いと考えるし、となると通常から外れてなければ価値がないと考える。
「笑える」を求めるなら別に鉄板ネタをいくらでも繰り返していればいいが、「面白い」を求めるなら少なくとも運動量として「標準」を求めていては駄目だ。
だから「正直彼女欲しい」とか「俺オタクだけど〜だからお前らとはry」とかはやっぱり価値が無いし面白くない。
笑えるけどそれは嘲笑の意味が多すぎて、ねえ?
ただまあ芋が「正直彼女欲しい」って言ったらめちゃくちゃ面白いけど。
「標準」を求めるという無価値に「芋という文脈を破壊する」という付加価値を加えると一気に価値がでる。
文脈破壊の面白さ恐るべし。

面白さについての考察はまだまだやるべきことが沢山ある。
とりあえず一般化39組をこれ以上劣化させないためにもうちょっと頭を使っておきたい。
もう今、がけっぷちで片足が浮いて、もう片足の下の地面にひびが入っているくらいに崩壊の瀬戸際だという自覚がある人は、しかし何人くらい居るんだろうなあ。
posted by terarorz at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

自己責任論

(笑)をつけているとキリが無いので今回は外しておく。

前に価値観を外部に求めることは悪であると書いた。
これは感情的に決めた定義で証明は出来ない。
しかし冷静になって考えてみると我々人間の精神の脆弱性を考えると、何にせよ色々なものを外部に頼ってしまうのは仕方が無いことかもしれない。

そもそも人間は個としては非常に弱い。
故に社会を維持するとも言えるし社会を維持するために個が弱いとも言えるが、ともかく我々は社会性を持った生物でありある程度は社会に依存して生きていかざるをえない。
例えば衣食住の生産や維持は全て他者の存在無しでは考えられない。
これはフィジカルな側面を上げたが、より精神性の高い知的財産や暇の創造も他者ひいては社会に依存している。
むしろこの側面の方が社会というネットワークの優位性を示すものであり、これは人間とその他の生物の科学のレベルの差に端的に現れている。

だが我々は「唯の人」であるのが生存上不利であることを知っている。
社会の歯車であればあるほど磨耗して使い捨てられてしまう。
故に何らかの特徴のある「唯一の人」であることを求める。
これは「差別化」や「劣化」をめぐる戦いである。
我々のような外れた者も外れているという(つまり社会の多様性を保持するという)価値で存在を許されている。
もちろん我々が「外れ値」としては「外れていない」というのはこちら側としての存在価値に致命的な影響を与えているのだがそれはまあ割愛しよう。
とにかく我々は(少なくとも外れた者は)「他者との差別化」においてのみ存在価値が評価されるべきである、と俺は思っている。

もう一つの価値観としては、「唯の人」として生きたいという価値観がある。
出る杭は打たれ出ない杭は引き上げられるという現実を考えて、なるべく目立たないようにすることに価値があるとする理論である。
自身の代替が存在するという時に一体どこにアイデンティティを求めるのかが解らない。
ここで「ならばここに生きている私は必要が無いのではないか?」とまで思えればまた特別であるのだが、そんな橙子さんみたいな人はそうそう居ない、と思う。
それじゃあ何であいつら生きてんの?と俺は思う。
たぶん、そんなことも考えたことが無いんだろう。

しかし、だ。
現在の社会、特に日本社会は非常に生ぬるいところである。
右に倣い左に倣っておけばとりあえず生存は保障される。
要するに、差別化しないで劣化のままでも生きていけるのである。
電光石火の無いフライゴンとかテクニック不足のデ・ラ・ペーニャとか球が速くないクルーンとかも生きていて良いらしいのである。
要するにチルタリスとか駒野とか大沼とかも生きていて良いらしいのである。
「んなわけねーだろ」と思ったそこの貴方はたぶんこちら側の人間である。
そしてどうやら社会では少数派であるらしい。

差別化を求めないということは大衆への迎合であり最頻値(平均値では無い)を目指すベクトルである。
「俺オタクだけど〜だからお前らより凄い」式の価値観は確実にこちらである。
位置がオタクであるかどうかはどうでも良い。
〜に入るのがリア充カラオケでも小学校友達との同窓会でもクリパでも一女でも何でも良い。
運動量がそちら向きであるという点に於いて俺は評価することが出来ない。
君の代わりはいくらでも居るんだから君は生きていなくていいよといわれたらどうするんだろうか?

もちろん俺程度の外れ度で唯一無二を名乗ろうなど片腹大激痛であることは重々承知している。
俺より外れた人間なんて日本だけでも1000人は居るだろうし俺程度の外れ人間はいくらでも代替が利くだろう。
だが俺が言いたいのはやはり位置ではなく運動量の話である。
ちなみにこの価値観はオリジナル(もちろんありふれているが)で、先ほど悪と定義した外部への価値観の依存と差別化を図っている。
もちろんそれでも俺が屑であることには変わりはないが、せめてもの抵抗をしているのである。

自分には生きる資格が無い。
意味も無いだろう。
だがそれを求めて日々もがいている(いた、か?)つもりである。
その努力を放棄して生きる意味も資格も無く、それを自覚することも考察することも無く、それでいてのうのうと生きる人間共が俺は心底嫌いである。
もしかしたら俺は向上心がある人間なのかもしれない。
向下心である気がしてならないが。

ついでだが、宗教に嵌る人間を俺は軽蔑するが同時に他の屑どもよりはマシだと考えている。
少なくとも生きる意味を求めた結果、それを外部に求めたのだから。
求めようともしない屑どもに比べればマシである。
そして同時にそこで思考停止するのは屑である。
もちろんすぐに「神が〜」とか「智代が〜」とか言い出す俺のことを俺は心底軽蔑しきっているわけだが。
ちなみに「他の屑よりはマシな屑」式の理屈で自己正当化しようとする俺自身のことも俺は嫌いである。

流石にそろそろ結論を出したい。
・外部に価値観を求めるのは悪である、というのは俺の主観
・↑を用いると屑が社会に迎合するのは存在理由の否定であり最悪の屑
・俺は屑
・お前らも屑
・みんな屑
・屑も屑なりにせめて自分の生き方の責任くらい取りなさい

しかし我ながら今回は纏まってないし論理の飛躍も話題の飛躍も甚だしいな。
まあ良いか。
posted by terarorz at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

リアクション

俺は自分のことをリアクション芸人だと思っている。
もちろんここでリアクション芸人を定義しなおす必要があって、つまり何が言いたいかというと、他者の発言を定義しなおす、あるいは発展させる、あるいは破壊することで笑いetcの好意的評価を受け取ろうとする人間だと自分を認識している。
だから基本的に俺の生産は他者の受け売りであり二番煎じでありパクリでありローリスクローリターンである。
さて、俺が今から書く内容の予想がついただろうか?

ここに面白い人間が一人居たとする(その人間をPとしよう)。
類は友を呼ぶということでその友人(Sとする)も一定の面白さを保障された人間であると仮定する。
Sの面白さの期待値はPの面白さに勝るだろうか?
それとも劣るだろうか?
人間の面白さの分布は中心極限定理を用いれば二項分布に従う。
Pが面白いということは全人類の面白さの平均<Pの面白さであるという定義だから、Pの面白さの周りで人数を展開すると1次の項は負になる。
つまり、Pの面白さの周辺では面白さが増えると人数が減る。
従ってPの周辺の人物を一定数集めた場合、Pより面白くない人間の方がPより面白い人間よりも数が多い。
以上から、Sの面白さの期待値はPの面白さを下回る。

一連の議論は「面白さ」の性質を用いていないので、厨房度、キモさ、痛さなどの性質について同様の議論が可能である。
さらに、PやSの性質も用いていないのでAとLの関係などにも当てはめることができ、およそ全ての人間について応用が可能であると考えられる。
ただしこの場合の人間関係は「同好の士」に限定される。
それは「PとSの間に『面白さ』の相関がある」ことを仮定しているからである。
従って例えばPとPの小学校時代の友人との間にこの関係は成立しない。
(もっとも、Pが平均を上回る面白さを持つならそれと相関が無い母集団に対してもPの面白さ>集団の面白さの期待値は成り立つが)

期待値はしかし個々のケースを論ずる場合あてにならない。
マクロからミクロを見ようなど言語道断であることは量子力学を引くまでもなく至極当然である。
だから以上の議論はSが面白くないからと言ってOだろうとLだろうと十把ひとからげに面白くないと主張するわけではない。
万が一それぞれのOやLが面白くなかったとしてもそれはPの責任ではない。
言ってみれば周辺で特に目立つPは誘蛾灯でありその周囲には蛾たるSやらOやらLやらの死骸が積みあがっていても何ら疑問ではないのである。

人間関係の取捨選択は帰納的であるべきだと俺は最近よく考える。
A→B→C→Dという演繹的発展は途中でCを切り捨てることを困難にする。
それはとりもなおさず上記の理由によりBに期待された面白さが次々と失われていくことをあらわす。
放っておけば周辺はDで埋め尽くされ最後にはSOL機関を搭載する羽目になる。
我々底辺の人間は不用意に横に手を伸ばしてはならない。
それは確実に社会(笑)と繋がっているのだから。
手の数を増やすことは社会との接点を増やすことに繋がる。
我々が出来るせめてもの抵抗は、10人を与えられたときに9人を切り捨て、1人を見出すことである。
もちろん最後には1人にも見捨てられて孤独に生きることになるが、そうならないわずかな可能性に賭けて時に厨房を探してしまうその試みを、100%切り捨てられるほど大人になっていないということでもある。

ゴミクズはゴミクズのように生きるべきである。
ゴミクズが世間に迎合し始めたらおしまいである。
ただの萌えオタに成り下がり(あるいは成り上がり、か)厨房とも呼べなくなった俺は終わってしまった。
せめてゴミクズの人たちにはゴミクズを貫いてもらいたい。
三大厨房(笑)などと言ってあの人たちと同列に扱ってもらったことを周囲の友人たちに感謝しつつ今日のところは筆をおくことにする。
posted by terarorz at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特に意味は無いが

昔と色々状況も変わったし、ちょっとやってみた。

1 博麗霊夢
2 上白沢慧音
2 藤原妹紅
2 風見幽香
2 永江衣玖
2 古明地さとり
7 西行寺幽々子
7 八雲紫
7 伊吹萃香
10 霧雨魔理沙
11 パチュリー・ノーレッジ
12 魂魄妖夢
13 レティ・ホワイトロック
14 稗田阿求
15 小野塚小町
16 比那名居天子
17 火焔猫燐(お燐)
18 霊烏路空(おくう)
19 八意永琳
19 古明地こいし
21 水橋パルスィ
22 八坂神奈子
23 鍵山雛
24 四季映姫・ヤマザナドゥ
25 洩矢諏訪子
26 十六夜咲夜
27 アリス・マーガトロイド
28 ルナサ・プリズムリバー
29 レミリア・スカーレット
30 フランドール・スカーレット
31 ミスティア・ローレライ
32 犬走椛
33 紅美鈴
34 八雲藍
35 鈴仙・優曇華院・イナバ
36 蓬莱山輝夜
37 東風谷早苗
38 ルナチャイルド
39 レイセン
40 因幡てゐ
41 メディスン・メランコリー
42 星熊勇儀
43 河城にとり
44 メルラン・プリズムリバー
45 リリカ・プリズムリバー
46 きもけーね
47 射命丸文
48 チルノ
48 リリーホワイト
50 大妖精
50 小悪魔
52 サニーミルク
53 ルーミア
53 リグル・ナイトバグ
55 スターサファイア
56 キスメ
57 黒谷ヤマメ
58 秋静葉
58 秋穣子
60 橙
61 マエリベリー・ハーン
62 宇佐見蓮子
63 上海人形
63 森近霖之助
65 お燐(にゃーん)
66 蓬莱人形
67 霧雨の親父さん
68 大江戸爆薬からくり人形
68 ゾンビフェアリー
70 綿月豊姫
70 綿月依姫
72 名無し本読み妖怪(朱鷺子)

大物が上に来て小物が下に来る実に俺らしいソート結果であった。
posted by terarorz at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

どうしてこうなった

 ___
/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| (     )  どうしてこうなった・・・
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /
 ___
/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| ( ^ω^ )  どうしてこうなった!?
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /

 ___ ♪ ∧__,∧.∩
/ || ̄ ̄|| r( ^ω^ )ノ  どうしてこうなった!
|.....||__|| └‐、   レ´`ヽ   どうしてこうなった!
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/ノ´` ♪
|    | ( ./     /

 ___        ♪  ∩∧__,∧
/ || ̄ ̄||         _ ヽ( ^ω^ )7  どうしてこうなった!
|.....||__||         /`ヽJ   ,‐┘   どうしてこうなった! 
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/  ´`ヽ、_  ノ    
|    | ( ./     /      `) ) ♪

事の発端はこれ。
NEC_7628.jpg
流石にどうかと思って整理を始める。

SFだけでこれくらい。
NEC_7629.jpg
神林長平だけで35冊ある。

ラノベはこんな感じ。
NEC_7630.jpg
これは酷い。

それにしてもこの男、真人間である。
NEC_7631.jpg
薄くて高い本はこれだけしかない。

完成。
NEC_7633.jpg

まだまだ入るよ!
posted by terarorz at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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